2023年03月26日

通信手段としての烽火   その8

今までは東シナ海側(西側)と北側からの船影についての情報手段としての烽火について書いてきましたが、

それでは南側(太平洋側)からの船影の発見はどうなっているのでしょうか?本島の最南端に然るべきもの

が存在したはずです。これについて考察してみましょう。  

 その前に 史跡ノカテゴリーと言いますか定義といいますか、なんとなく方程式のように示されていなくて

理数系の私には紛らわしく思われて仕方がありません。

城(しろ、じょう)とはなにか!私たちのイメージとしては戦国武将の居城であり、広大な荘園と年貢を納める

農民がいて、あるいは交易のための港を持つ戦国を勝ち抜いてきた武将の館と言った方が分かりやすい。

その組織の頂点には天皇がいて代々おさめられてきています。しかし琉球にはそもそも天皇自体がいら

っしゃらないし、武士という明確な身分制度もありません。

それでは琉球には”城”は存在しないのかというと、首里城,中城城、今帰仁城、浦添城は立派な“城”と

いえます。ただ違うのは武士と按司の違いで按司イコール武士とすれば何となく理解できます。

しかし、南部に展開している城(ぐしく)は規模も小さく城主としての按司は領主というよりその土地土地

のボスと考えるとわかり易い、限りなく農民に近いボスが按司に進化したと考えています。

琉球ではさらに規模のちいさい石垣囲いの構築物にも“城(ぐすく)”といっています。たとえば三重城、御

物城などがそうです、さらに拝所にも同様な使い方をしています。

この”ぐすく”の定義づけは専門家の間でももめているようですので、ここでは割愛します。

さて、本島最南端に具志川城が有りまして“城”として国指定史跡になっています。

糸満市のホームページにも久米島の具志川城の領主が追われてこの地に再び城を築いたもので13世紀

から15世紀の城・・・・として説明されています。

国指定史跡である史跡が根拠のない伝説だけで解説していいものでしょうか?

ここからは私自身の考察で全く違うものであることと反論いたします。素人考えですから資料に裏付けら

れた持論ではありません。そのつもりで読んで下されば幸いです。

先ずは、これは城ではありません、近くに荘園もなく農民もいない岬デス。一の郭、二の郭と説明もして

いますが、そんな狭い所に領主が住むわけがありません。

では一体何なのか?    薩摩藩調製琉球図 間切図  で見てみましょう。

図に示す様に具志川城は記載されている文字の判読に困難をきわめました。具志川☐☐城とあり、漢字辞典

でやっと見つけることが出来ました。萑旧城(かんきゅうじょう)草が多く茂った古い城の意味でした。

長い間放置されたままの史跡と記されていました。



では何の目的で何のために構築されたのでしょうか?

次回に続く
  


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2023年03月25日

通信手段としての烽火   その7

県立図書館での調べものに日々楽しんでいます。

読谷村の村史をくまなく”烽火、もしくは火立”の記述した資料を探していますが、

何故か見当たりませんでした。

特に座喜味については座喜味城を含めて関連した資料を探しているのですが、

いまのところ探しえていません。

天候条件のいい日を選んで再度座喜味城から瀬底島が目視できるかどうか調

べに行くつもりですが、約30キロも離れているので、夜間ならともかく昼の日常

の天候の中で烽火を確認するには距離があり過ぎる感じです。

あくまでも素人の考察ですからその気で読んで下さい。

さて、調べ物をしているうちに、慶良間諸島の前島の資料を発見しました。

中村文雄 著 ”語り継ぐ めーぎらま” 渡嘉敷村前島   中村氏 は戦前前島

住民で那覇移住するも晩年島に戻り無人島から有人島として前島を復活させた方

です。かつて島には学校も港もあったようです。

現在も住んでいらっしゃるかどうかは不明です。

島の地図にははっきりと 遠見台と狼煙場が記されていました。

島の様子を島袋和幸氏が記述しています。この方は自分の足で調査した様子が

伺えます。まったく頭が下がります。


  


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2023年03月22日

通信手段としての烽火   その6

前回 瀬底島からは座喜味城で中継して首里の弁が岳に伝達すると記述しましたので、

実際に座喜味城迄行って来ました。

あいにく曇り空で、目視では瀬底島は確認できませんでした。また、首里の弁が岳の

通信設備としての鉄塔も余りにも距離があるので正確には確認できませんでした。

実際に現場である座喜味城の城壁の上では火を焚くほどの広場は無くて城壁では

無理であろうと推察します。かと言って城郭の内部では相互の煙は確認できませんので

座喜味とあるだけで、座喜味城ではないのではなくて、近くに火を立てる場所が存在

したのではないでしょうか。

相互が確認出来る目視距離は慶良間渡嘉敷島から前島迄が約10Kで前島から具志

迄が約20Kです。

瀬底島から座喜味城までは約30K(キロメートル)もあり天候と時間帯に大きく左右される

距離ではないでしょうか。また、座喜味城から首里の弁が岳までは約20Kもありこれも

かなり厳しい条件となります。

筆者は北側の中継地として恩納村の岬、また、南側の中継地として浦添、もしくは宜野湾

の高台に烽火台が有れば全天候型の通信手段としての烽火が活用されたであろうと推察

しているところです。

近いうちに再度座喜味城へ赴き確認してまいります。

さて、調べ物をしているうちに県立図書館で具志村誌を見つけて、ページをめくっていますと

具志村の火立台の昔の写真と 当時の地形図を見つけましたのでここにUPします。





次回は南端、つまり太平洋側からの船を発見した場合の烽火について検討したいと思います。
  


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2023年03月17日

通信手段としての烽火   その5

前回の地図で北西からの情報(船の発見)は伊是名島,>古宇利島、>本部町大嶺、>伊江島、>

瀬底島、>座喜味城と連なり、座喜味城からは首里の弁が岳が最終受口となっている。

先日首里の弁が岳の“火立毛”を調べに行った折確認すべきであったが、その時点ではそこまで込

み入って調べる気はまだなかった。ただ南部の遠望に与座岳を確認するにとどめていた。南部から

の烽火についてはこれからの課題としたい。さて、問題は瀬底島に烽火台が存在したかどうかと、

座喜味城からそれが確認できたかというのが問題である。瀬底島と座喜味城の間は慶良間と小禄

具志までの距離よりも遠く離れているので、果たして見えるのだろうか?

それと同時に、座喜味から首里弁が岳の火立毛が見えるかどうか?同じぐらいの距離だと思われます。

座喜味から首里の弁が岳へは中継地として、例えば浦添城とか宜野湾の丘に烽火台が必要なの

ではないかと、思いを巡らしているところです。浦添からは残波岬がよく見えます。多分浦添の嘉数

高地の見晴台からもよく見えるはずです。

くる日曜日に”やちむんの里”迄いきますので、ついでに座喜味城迄足を延ばして確認してまいります。

ただ、天気予報が曇りなので気になるところです。


追記:瀬底島には ウフンニ(遠見台跡)ウフニヤとも呼ばれる島の最も高い所に拝所がある

瀬底島にはトウーミ(遠見番)の職が置かれ、伊江島から烽火が上がるとウフニヤでも烽火を上げて

読谷村座喜味に伝えた。島では今でも”遠見屋”(トウミヤー)の屋号が残っている。

         本部町瀬底島(ムラ・シマ講座)    平成23年配布資料  


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2023年03月15日

通信手段としての烽火   その4

先輩方は烽火についてかなり深く調査、研究されていることが次第にわかってきました。

島袋和幸 ”沖縄の軌跡 沖縄烽火のネットワーク” 2010年発行

離島各所の烽火台の調査報告が写真いりで報告されています。県立図書館で閲覧しましたが著作権

の関係でコピーはかないませんでしたが、多くの情報を知ることが出来ました。

江戸時代末期には、島の周囲は外国船が貿易を迫り、多くの軍艦が出入したようですが、電気通信設備の

無い時代は烽火で知らせる方法がとられました。各番所には員数の貼り付け、給与手当が支給され、

見逃した時はきつく罰せられたようです。

鹿児島側から(北側)の発見、東シナ海側(西側)からの烽火のネットワーク図を見つけましたの

でUPします。



2011年07月18日のTi-Da ブログに”首里城から のろし を見る”と題して大学生による実証実験

を試みた事が載っていますが、天候に恵まれず確認出来なかったようです。

上図にありますように、最終受口は小禄村具志村の烽火台です。ここからは早馬で王府に伝達し

たようです。

慶良間諸島は渡嘉敷島でのろしを上げ、前島で受け継ぎ小禄へ伝達したようですが、前島には烽火台

があったかどうか今の所不明です。しかし、具志村からは渡嘉敷の烽火台は丁度、前島の南端の

島影をかすめますから直接見えたかもしれません。

大学生諸君!渡嘉敷島発--小禄受口で再度挑戦してみてください。天候さえ良ければきっと上手

くいくと信じています。
  


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2023年03月07日

通信手段としての烽火   その3

先に首里の弁が岳の日立毛は太平洋側の情報収集個所かと記述しましたが、調べているうちに
なんと国頭からの情報の最終受口と判明しました。
途中のルートはまだ不明です。現在は名護市の天仁屋に烽火台があったことまでは突き詰めましたが
これからの課題とします。
沖縄の各離島にはそれぞれ烽火台があったことが次第にわかってきました。
現在までに判明した烽火台は以下の通りです

久米島    :      その1  そなみ山  その2 ? 2ヶ所あるらしい
渡嘉敷島  :       赤間山立火所跡   (少年自然の家構内)
座間味島  :      番所山 頂上  南北に3露 内2ヶ所判明とあるが未確認
渡名喜島   :    その1 南部山地の大本田岳  その2  アマグスクのヒータティヤー
粟国島    :    南西部に番屋敷があったらしい。(現在は崖っぷちの見晴台)
国頭村伊地  :   遠見屋烽火台 宮城樹正さん 2個目烽火台発見
今帰仁村   :   今泊の火立森?他にも有りそう?今帰仁城には存在しないのか?
古宇利島   :   一番高い所に烽火台あり
伊是名島   :   アーガ山の烽火台
名護市    :   天仁屋  南側 バン崎に烽火台

現在はここまでです。

今朝、沖縄タイムス社に出向いて 2007年11月10日の ”のろしリレー島つなぐ”

古い記事を購入しましたのでUPします。







名護市の天仁屋の地図も調べましたのでお知らせいたします




このブログを読んで烽火台の存在を知る方は遠慮なくお知らせ、ご指導ください
 
  


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2023年03月05日

通信手段としての烽火   その2

それでは東シナ海側からの情報はどのようにして首里に伝達されたのでしょうか?

久米島に発した烽火は渡名喜島、渡嘉敷島を経由して、那覇(小禄村)具志の火立所で確認して

那覇の役所と首里へ早馬でしらせたようです。

 具志の住所は次の通りです。 所在地:那覇市具志1-17-31

現在はマンションが立っていて市街地になっていました。

この場所は本土復帰以前は米軍基地の金網の中にあり入れませんでした。やがて解放されるや

市街地再開発事業が発生して小高い丘は削り取られて平坦な市街地みなってしまいました。

私が帰省した昭和49年にはまだニービ(具志特有の砂岩)の丘は所々残っていて、連日ユンボ

とブルで整備されていきました。



昭和の古地図と照合してみましょう。

確かにこの箇所は小高い丘になっていることが解りますモノレール赤嶺駅を過ぎたあたりから

南側は平坦な緩やかな地形となり、慶良間諸島がはっきりと見えたであろうと推測します。

現地を尋ねた3月3日は曇り空でしたが渡嘉敷島がよく見えていました。



王朝時代の古地図にも見つけることが出来ました。 具志村の隣りに”火立所”として明記されていました。



那覇市の文化財課は史跡資料を整備して表示板として掲示しています。

今回もその掲示板の写真を流用しますが、烽火の本数が気になっていました。1~4本の烽火を

あげたと有りますが、その為には離れた個所に複数の烽火台が必要なはずですが、今まで見た地方の

烽火台は単体でした。疑問点を抱えたまま悶々としていましたが、このパネルの写真で4つの炉が

あったことが判明しました。よくぞ古い写真を探し当てたものだと感謝しています。


 
さて、第一発見者である久米島からどんな風に、どのようなルートで那覇迄届けたのでしょうか?

この件も那覇市のパネルは表示しています。

那覇の直前の烽火は慶良間の渡嘉敷島のようです。





  


Posted by グランパ at 10:58Comments(0)

2023年02月27日

通信手段としての烽火   その1

古代、シルクロードの砂漠において地平線に立ち昇る煙(烽火)を情報の伝達手段として使われてきました。

周辺を海に囲まれた琉球においても、首里王府に一刻も早く伝える手段として烽火が使われてきました。

水平線の彼方に立ち昇る煙を手段として点在する島々を結んでネットワークが構築されていたのです。

 中國からの進貢船.冠船を水平線の彼方にいち早く発見できたのは久米島でした。ここから如何にして首里王府まで

伝達することができたか、これが今度のテーマです。

宮古島、八重山諸島にも同様に烽火の文化は存在したと思いますが、今回は割愛させていただきます。

 第一回は 首里城下にあった烽火台(火立毛:ひーたちもう)を紹介します。

この年になるまでその存在を知りませんでした。首里王府は情報を受け取る最終ポイントのはずですが、首里城下にも

烽火台があったのです。

 早速行って来ました。弁が岳のてっぺんで通信鉄塔が立ち並ぶ脇に鎮座していました。昔の人も通信の絶好ポイント

を抑えているのに感心した次第です。

 この位置ですと信号を受ける立場よりも、信号を発する個所として、例えば灯台の役目として、活用されたのでは

ないでしょうか。しかし江戸末期には米国、西欧の船も寄港していますから、太平洋側からの船影の発見にはここが

重要な役目を担ったかもしれません。

 現場に立って見渡しますと、北は勝連半島、正面に知念、久高島がみえますが南は与座岳の山並みにはばまれて

水平線の彼方は確認できませんでした。

 喜屋武岬から玉城経由で首里に知らせるルートがあるはずでが、いまのところ知りません。今後の課題です。








首里古地図にも火立番敷(番屋?)を見つけましたので追加します。



所在地: 那覇市首里石嶺町2丁目250-97

周辺は墓地だらけになっています。

首里の古地図では赤瓦の家が表示されていますので立派な番屋だったことが想像出来ます。

ごめんなさい! 写真が横倒しになっていますが直し方がわかりません。

次回は那覇市内の最終受口としての烽火台跡を訪ねてみます。





  


Posted by グランパ at 16:11Comments(0)

2022年12月01日

まだ水彩画

リンゴが送られてきたので、久しぶりに描いてみました。

カメラはyashica 635 私の中学時代の古い2ガンレフです。




  


Posted by グランパ at 18:21Comments(1)

2022年10月16日

またまた水彩画

アンテナタワーの解体と新設アンテナの設置工事に追われて暫く絵を描くことから離れていましたが

今日久しぶりに絵が出来ましたのでUPします。本土ではあまり見かけませんが“釈迦頭”と名の付く

果物です。中身はザラメトウのような甘い果物です。


  


Posted by グランパ at 13:59Comments(0)

2022年10月13日

アンテナ取付工事が完了しました。

8月末の台風の後おろしていたアンテナを戻している最中に安全ベルトのロープを外して中段まで下りた時、タワーごと倒れてしまいました。
大きな衝撃音はしたもののどこも怪我は無くて呆然としていました。


 
在りし日の14,21Mのヤギアンテナです。



 幸いにも水タンクの基台に引っかかったのでブームが折れて衝撃を吸収してくれたようでした。
三段からなる鉄塔ですが最上段を残して再利用することにしました。基台部分が経年変化で腐食していたのが原因でした。
メーカーに問い合わせたところ同じものがまだ製造されていて在庫もあり、すぐ取り寄せて2.4メートルの小さなタワーを組み立てました。
メーカーに35年に購入したものと同じものが存在することで救われたような気がいたします。



新しくミニマルチ社の21.28.50Mnoコンパクトなアンテナを取り付けました。




レピーター用のGPアンテナも手が届く高さでモービルホイップに挿げ替えました。



朝のロールコール14M はダブルバズーカのワイヤアンテナで参加しています。これが予想以上に働いてくれています。





  


Posted by グランパ at 15:31Comments(0)アマチュア無線

2022年09月01日

また水彩画

ガラスの器に盛られた季節の変わり目果物たち


  


Posted by グランパ at 14:32Comments(0)

2022年08月27日

通り雨

久々に絵をかきました。ぐるくん釣りに行ったときの船からの景色です。



前回の写真と比べて鑑賞してください。  


Posted by グランパ at 17:37Comments(0)

2022年08月14日

孫の初釣り ぐるくん

盆休みに熊本から婿殿と孫がやって来た。船酔いを心配したが心配をよそに、初めてのグルクンを体験した。

海はべたなぎ、入道雲の下では時ならぬシャワーになり三度もスコールをくぐることになる。

グルクン15匹、シジャー(ダツ)1匹、エー(アイゴ)3匹。まあまあの釣果となる。


 



  


Posted by グランパ at 16:50Comments(0)

2022年07月10日

今釣釣初めての釣果

ぐるくん釣りに行って来ました。チービシ西側、むしろ渡嘉敷村前島に近い紺碧の海。

かなり流れがあり50号の重りは横に流されて、となりの釣り人のこませとなる。従って隣は入れ食い状態

だけれど私は餌をまくばかりでなかなか食ってくれない。乗合の悲しさで席替えが出来ない。それでもねばって

写真の通り。おおきいやつは今夜の刺身、泡盛のおともとなりました。


  


Posted by グランパ at 18:43Comments(0)

2022年06月26日

ヤシの木陰でピーヒョロロ

E-スポが開いてきました。国分寺と山川が赤く染まっていました(宇宙天気予報)

午後から移動運用、アウトドアテーブルといすを持ち出して、いつもの場所でオンエアー。











50MHz FT8とSSBを運用してきました。交信して頂いた各局QSLはビューローです。

有難うございました。


  


Posted by グランパ at 22:37Comments(0)

2022年06月20日

50MHz 3EL YAGI アンテナ

google photo の不具合が突如として回復したので昨日の移動運用に使用した八木アンテナを紹介します。

軽量化を狙いアンテナフレームを6ミリΦ、4ミリΦ振り出しとして、中心周波数50.100MHz、SWR1.0、インピーダンス50Ω

を目標にMMANAでシュミレーション値を計算させて忠実に再現してみました。







6月19日 15:30 あたりからE-supoが開けてきてFT8の初デビューとなりました。交信して頂いた局にお礼申し上げます。


  


Posted by グランパ at 17:26Comments(0)

2022年06月05日

移動運用 浦添市

長梅雨の中、ほんの一時だけ雨が降らない事が確認できたので、いつもの場所でバランとアンテナ(50M,21M)

のテストに出かけました。 ポールを建ててアンテナの設営を済ませると祝福するかのように青空が見えてきました。

50MHz も21MHzのワイヤダイポールも結果は上出来でした。バランも正常に作動して素晴らしいデータが取れました。







写真が逆さまですが変換できません。ごめんなさい。


50MHz 、21MHzともSSBで交信出来ましたので、急いで撤収して帰路につきました。

車に乗り込むと同時に雨が降り出してきました。

  


Posted by グランパ at 20:28Comments(0)

2022年06月02日

ワイヤダイポールアンテナとバラン

移動運用に備えて50MHzと21MHzのワイヤダイポールアンテナを作ることにしました。切り替えはギボシ端子の接続により

任意に切り替えて使います。伸縮ポールのてっぺんにとりつけるために出来るだけ軽いことが条件となります。市販のバラン

は樹脂で固めているために重量があり、ポールがたわんでしまいます。そこで軽量なバランを制作することにしました。

フェライトコアが自宅にないので個別に注文するのに躊躇していましたが、世の中には救いのてを差し伸べる企業が存在

してキットで販売しているのを見つけて早速注文して制作開始です。






 
付属している碍子をボックスに固定して、裏蓋にはポールに固定しやすいようにガイドをつけてあります。

中庭で50MHz 、21MHzの周波数特性とSWRをカットエンドトライで追い込みました。

晴れた日に実際に移動運用で使う予定でいます。
  


Posted by グランパ at 15:43Comments(0)

2022年05月24日

水彩画

久しぶりに筆をtりました。 

降りしきる雨を忘れて、無心に筆を走らせる。



  


Posted by グランパ at 20:38Comments(0)