2023年03月05日

通信手段としての烽火   その2

それでは東シナ海側からの情報はどのようにして首里に伝達されたのでしょうか?

久米島に発した烽火は渡名喜島、渡嘉敷島を経由して、那覇(小禄村)具志の火立所で確認して

那覇の役所と首里へ早馬でしらせたようです。

 具志の住所は次の通りです。 所在地:那覇市具志1-17-31

現在はマンションが立っていて市街地になっていました。

この場所は本土復帰以前は米軍基地の金網の中にあり入れませんでした。やがて解放されるや

市街地再開発事業が発生して小高い丘は削り取られて平坦な市街地みなってしまいました。

私が帰省した昭和49年にはまだニービ(具志特有の砂岩)の丘は所々残っていて、連日ユンボ

とブルで整備されていきました。

通信手段としての烽火   その2

昭和の古地図と照合してみましょう。

確かにこの箇所は小高い丘になっていることが解りますモノレール赤嶺駅を過ぎたあたりから

南側は平坦な緩やかな地形となり、慶良間諸島がはっきりと見えたであろうと推測します。

現地を尋ねた3月3日は曇り空でしたが渡嘉敷島がよく見えていました。

通信手段としての烽火   その2

王朝時代の古地図にも見つけることが出来ました。 具志村の隣りに”火立所”として明記されていました。

通信手段としての烽火   その2

那覇市の文化財課は史跡資料を整備して表示板として掲示しています。

今回もその掲示板の写真を流用しますが、烽火の本数が気になっていました。1~4本の烽火を

あげたと有りますが、その為には離れた個所に複数の烽火台が必要なはずですが、今まで見た地方の

烽火台は単体でした。疑問点を抱えたまま悶々としていましたが、このパネルの写真で4つの炉が

あったことが判明しました。よくぞ古い写真を探し当てたものだと感謝しています。

通信手段としての烽火   その2
 
さて、第一発見者である久米島からどんな風に、どのようなルートで那覇迄届けたのでしょうか?

この件も那覇市のパネルは表示しています。

那覇の直前の烽火は慶良間の渡嘉敷島のようです。

通信手段としての烽火   その2






Posted by グランパ at 10:58│Comments(0)
 
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