2014年05月30日

お伊勢参り

朝の参道は玉砂利のきしむ音がここちよい。

御神木の林は本殿までの清めの空間を演出するのか、すこしずつ神代の世界へと

いざなってくれている。

ほとんど無言のまま進む!






遷宮を終えたばかりの外宮も本宮もピカピカで屋根のかやぶきも新しい。

建築物としての荘厳さは認めるがそれ以上のことは何も感じ得ない!

ああ!アマテラスオオノカミを単なる神話としか感じ得ない沖縄の民のDNAのせいか、

ここに絶対なる神がましますことに鈍感なのである。

写真も撮影禁止されていて記憶にとどめるだけです。

従ってここに神宮の写真をUPできません。あしからず。




人気の赤福を皆でいただく。  


Posted by グランパ at 10:21Comments(0)

2014年05月05日

客家の住む円楼(土楼)を訪ねて

アモイからバスで3時間ひたすら茶畑の中を走る。
平地から次第に山懐の深い高地の中をひた足る、いくつもの段々畑の茶畑を
過ぎるとやっと円楼の里に着いた。
いつか見てみたいと思っていた光景にやっと願いがかないました。

円楼に行く途中の道の駅みたいな施設の広場に我が家にある石臼とそっくりなものを
発見! 茶葉をひいた臼と思われますが、これと同じものがマラッカの客家の庭にも
ありました。我が家ではエントランスのアクセサリーとして使っています。



円楼は山に囲まれた茶畑の中にひっそりと建っていました。



二宜楼と門に刻まれた円楼は四層の建築物で中庭はかなり広い空間を共有しています。







中庭ではスマートフォンをいじる子供をそっと見つめる若い母親の目線がほほえましく思わず
シャッターを切る。


すぐ近くの別の土楼”東陽楼”に移る。この土楼は方形の土楼でした。



土楼の内側の生活空間はかなり散らかっています。
カメラを向けると最初は嫌がっていましたが、やがてVサインを送ってくれました。










   


Posted by グランパ at 20:28Comments(0)旅シリーズ(外国)

2014年05月04日

温故知新 その3

さて いよいよ 3番目の目的の話をしましょう。

ご先祖の梁邦翰は首里で系図座を作った時の担当者でした。かれは歴代宝案の担当者でもあり、
古い歴代宝案を調べている中で1500年代の琉球の大交易時代をになった先人達に梁姓の人が
目立っていることにきずきました。
この中で特に梁應、梁徳、梁能なる人物はずばぬけて活躍しているのです。アジアに買い付けに
行き、北京で明の皇帝に幾度となく謁見しているのです。
しかし、なぜか呉江会の系図の中にこの先人達が記載されていないのです。梁邦翰は300年
前に自分は調査するには年を取り過ぎた、後世にゆだねることにする。と家譜に書いているのです。
あれから300年経過した今私たちは調査団を結成して福州に先人を探す旅に出たのであります。
 今回ほど人の縁といいましょうかネットワークの不思議さを感じたことは有りませんでした。
五里霧中といいいましょうかどこから手をつけたらいいか皆目見当がつきませんでいた。
大海に落し物を探すようなものであまりにもテーマが重すぎました。
そこで、梁氏の清明祭にわざわざ調査に来て下さった北京大学の博士課程の研究生である
李ほうけん さんにメールでアドバイスを依頼しましたら、彼女は福建師範大学の謝教授を
紹介してくれました。謝教授のもとで研究している徐先生が紹介されて、彼を梁邊村に事前
に派遣して調査に協力してくれました。なお徐先生は琉球大学の博士課程に留学の経験が
あり今回の通訳もかってくれました。さらに在アモイの旅行代理店の周さんも福州まで迎えて
くれましたが、周さんのお父様はアモイ大学の教授でその教え子が謝教授であることが判明
して今回の調査のネットワークがウソでしょうといいたいほど不思議な縁を感じた次第です。

さて本論にもどりましょう。
梁邊村の廟には福建師範大学のメンバーが待機していました。
新たに頼教授が加わりさらに??先生(名刺交換しなかった)の他に琉球大学からの留学生
我部さんも、さらに沖縄県産業振興公社の福建駐在の職員も参加の交流会となりました。



村長の梁心玉氏も含め私たち調査団全員参加の交流会となりました。
冒頭に上記3人を探している旨を説明し呉江会始祖梁嵩との関連を探していることを通訳の
徐先生を介して会議はすすみました。






しかし、残念ながら上記三人の琉球の大交易時代をささえた先人達の消息を見つけることは
敵いませんでした。
謝教授からその理由として考えられることは当時の明国は鎖国制度をしいていて外国での交易
は禁じられていて、もし国外で関与した者は厳しく罰せられ一族にも及んだことを説明されました。

徐先生からは今回見つけることは出来なかったけれど自分が研究の過程でこれらの先人達の
家譜が見つかったら報告しますと言ってくれました。

なるほど、国賊扱いとあっては家譜に記載されなかったことが理解できました。
しかし、皇帝に幾度となく謁見するほどの人物は国賓であり北京に至る道筋では交代で警護の
使者がつくほどの人物を国賊とあつかうにはいささか飛躍すぎる感もあり、私的には福州以外
の例えば泉州あたりの梁族の家譜に見つけることは出来ないものかと新たな調査の必要性を
感じた一日でもありました。




    


Posted by グランパ at 21:21Comments(0)