2011年10月11日

琉球弓道事始 その4

二世の代に薩摩の支配下にはいり国王尚豊の命で薩摩へ買い付け官として派遣されています(尚豊王の中国への請封として必要とされた大和の物資買い付け役)。もともと那覇士族は商人が多く首里王府に経済的に貢献した者を士族に取り上げていますから、藺氏も比較的早い時期に薩摩との交流があったことがうかがえます。

さて、この四世新垣親雲上は新垣性を名乗るには日が浅くおそらく先代からの呼び名として我謝親方として呼ばれていたと推察いたします。
彼は大和横目(薩摩在番の接待役)、つまり薩摩の琉球駐在官のおもり役としてとりたてられ、久米村総与頭(消防長)、砂糖奉行(黒糖の出納)など歴任し、申口座(親方の次位)に上ります。その後糸嶺に改姓し、現在でも藺氏の宗家は糸嶺姓を名乗っています。

それでは彼は何処で何時弓道を学んだのでしょうか?
その件は藺氏の家譜に明確に記述されていました。
康煕57年(1718年)尚氏越来王子朝慶の江戸上りのさい従者として随行します。そのおり東郷長左衛門尉重より日置流弓法を伝授されているのです。



           琉球弓道事始 その4
   

           藺氏 家譜

乾隆5年(1740年)在番奉行仁禮十兵衛はこのことを聞き及んで9月5日に沖縄の在番奉行のある御仮家において弓術の披露を請願しました。
さいさん断るのですが断れずご披露目することになり、首尾よく無事勤め上げて、翌日“表15人衆”経由でお礼とお褒めの口上書をいただいたと記載されています。

彼こそが上記記載の絵の主人公であり、琉球で最初に弓術(弓道)を修めた大先輩なのであります。



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Posted by グランパ at 16:52│Comments(0)弓道
 
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