2012年02月26日

マレーシア、シンガポールの旅 その5

琉球王朝とマラッカ国との交流

琉球国は察度年間にはすで明国と朝貢が始まり(1386年)読谷村の泰期を使者にたて馬120匹を進貢しています。1389年にはシャム国と交易も始まり積荷としてかさばる馬に代わって香木、蘇木、胡椒などに変わっていきますが、1570年代までに通算60隻にもおよぶ交易の実績が有ります。

しかし、1463年から1511年までの間はシャムとの交易は極端に減少し代わってマラッカとの交易が台頭するのです。マラッカの交易実績は20隻で琉球国のいわゆる大交易時代の2番目に実績の大きな国なのであります。

シャム国が勢力を広げアジアの政情が不安定になりつつある事にかんがみ、明国は鄭和の艦隊を送り朝貢を促します。

1405年マラッカの国王パラメスワラはタイのアユタヤ朝からの外圧を避けるために鄭和のすすめにより明国への朝貢を始めます。

その数年前に明国は琉球に閩人36姓を送り込んでいます。

したがって朝貢のため北京入りした琉球の使者達はマラッカの常連達と親しくなり、朝貢品目の蘇木がマラッカの特産品であることに着目してシャムからマラッカへ移行したものと筆者は推測いたします。

しかし、そのマラッカも1511年にポルトガルに占領されてしまいます。その後オランダに占領されやがて東インド会社の設立と時代はすすみますが、オランダはイギリスにその権利を譲ってしまいます。

琉球国はマラッカの占領直前に蘇木と胡椒の買い付けに派遣しますが、その時の通時として乗船した人が梁氏3世の梁傑である事が家譜に明記されているのです。

木の重さと同じ重さの金と交換するほど明国で重宝がられた蘇木といかなる植物なるか? また当時のマラッカの港は何処に有ったのか? 遠く琉球国から命がけで国王の勅書を持ってマラッカ国王に謁見した場所マラッカの王宮はどんな所だっただろうか?

かくしてその足跡を尋ねて我々シルバーエイトの旅は始まったのであります。

現地ガイドが案内してくれた王宮の跡地は小高い丘になっていて今は残骸だけが残る教会になっていました。

マレーシア、シンガポールの旅 その5


セント・ポール教会である。占領後のポルトガルが建立したもので入り口に建つ石像はかの有名なザビエルです。彼の遺体が一時安置されていた教会です。

イギリス時代に破壊され今ではポルトガル時代の砦としての砲門が残るだけです。

マレーシア、シンガポールの旅 その5

右端に砲門が有りますがお分かりでしょうか。

砦ですから岸壁の下は海だったはずですが今はすっかり埋め立てられて町の中のモニュメントとしてのひっそりと観光客をまっています。

かの王宮はその近くに再建され今はマラッカ文化博物館となっていますが今回は時間が無く立ち寄る事が適いませんでした。

マレーシア、シンガポールの旅 その5

つづく


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