2023年03月27日

通信手段としての烽火   その9

13世紀~14世紀と言えば琉球図が最も栄えた時代で、南蛮交易で琉球の経済は成り立っていた、

と言っても過言ではないでしょう。  夏の季節風にのり琉球に戻るとき、最初に確認するのは島の

最南端である喜屋武岬です。それが喜屋武岬である確認はどうして識別したのでしょうか?現在

のように灯台のない時代ですから烽火で知らせるしかありません。

火立台は次回説明しますが同じ喜屋武村の番所の近くに存在していました。従ってこの場所は灯台

としての役目のために造られた構築物であると推察します。

一の郭、二の郭は居住としての館ではなく番屋と薪の貯蔵庫として推察するとその規模といい配置

といい納得できる構築物と言えます。

この史跡は南面に大きな穴が開き、上部には”ヒーフチミー(火吹き穴)”海に通じると説明されていま

すが、これでは海底鍾乳洞を連想してしまいます。

実際に壁面の巨大な洞窟を調べてみようと思っていましたが、幸いにも詳しく調査された方がいまして

下記の YouTube で発表しています。

https://www.youtube.com/watch?v=ckCVClmUYvg

私が想像した通りの洞くつで、人工的に造られたもので大きな窯というか炉というか壺屋の登り窯

を連想しました。

通信手段としての烽火   その9

下へ降りる道も多分あったはずですが戦争で破壊したのか今は不明です。

吹き出し口は天蓋がありませんので、大雨時や台風時には逆流して洞くつの内部は灰が流されてる

ものとすいさつします、壁には焼けた跡らしいものが見えますので、多分烽火で知らせるための窯

だったのではないかと思っています。専門家も発表していないだけでそれくらいのことは気づいている

ものとおもわれます。

通信手段としての烽火   その9


次回は喜屋武村の火立所について記載予定しています。






Posted by グランパ at 10:16│Comments(0)
 
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