2012年05月28日

東寿寺の建立時期についての考察

過去に東寿寺について幾多の資料を調べたがその建立時期については不明のままでありましたが、最近送られてきた久米崇聖会の機関誌「チーシンブー 第三号」に明確にその建立時期と創建者の名前が判明した。
 上記機関誌の特別寄稿「古事集」とその唐栄府・・・医学博士 原田 禹雄氏の寄稿文の中に、長い間捜し求めていた事項が紹介されていたのです。
それは鎌倉芳太郎資料集(ノート篇Ⅱ)沖縄県立芸術大学発行に記載されている内容を和訳したものでした。
現物が見たく、はやる心をおさえながら芸大の資料館まで行って参りました。

鎌倉芳太郎資料集(ノート篇Ⅱ) ノート番号37
古事集  評定所  丑 日  尚公爵家所蔵本

唐栄府  寺社のなかに「東寿寺」の件が記されていました。
東寿寺  嘉靖三十七年 戊午 頼雄 創建
     此寺以為隠居之所

原田氏の注釈によりますと、“嘉靖三十七年(1558)戊午、頼雄(らいおう)がこの寺を創建して隠居所とした”とあります。
たった二行の文書ですが長い間捜し求めていた事項だけに、この原文を写しながら霧が晴れたような快感をおぼえたものです。

 さて、今までに東寿寺と頼慶の関係は先に記述してありますが、この頼雄なる人物はいかなる者か?ということになります。
頭に“頼”の文字がつきますので波之上護国寺の住職で、かつ頼慶よりも先輩ということになります。

琉球国由来記 巻十一 住持次第 歴代護国寺の住職名が出てきます。
開山は頼重法印ですがその次の頼玖和尚までが不明で、あと芸瑜、宥増、快勢、宥厳、頼雄、頼元、怳雄、頼雄、秀意、頼慶、頼意・・・・
と続きます。なぜか頼雄が二度も出てきますが、とにかく頼慶の先輩で波之上
護国寺の住職であること、および東寿寺が波之上護国寺の隠居寺であったことが明確になりました。
先に記述した報告書に東寿寺には6畳と8畳の部屋のほか仏壇には仏像が3体安置されトイレまであったと記しましたが、隠居寺としての目的にぴったり合致した面積であったことが伺えます。しかし驚いたことに昭和の19年まで486年もの年月を経て瓦も屋根も部屋もしっかり残っていた事実は、よほどしっかりした資材を用いたにちがいありません。

とにもかくにも一件落着といったかんじです。
 
なお、徐葆光の“中山伝信録”にも東寿寺が記載されていることにがわかりました。
巻四 “紀遊”
「東寿寺」門前亦以黄楊作屏その直前の文章で“西福寺”が泉崎橋の近くにあり門前は黄楊(ギチチャー)で生垣をつくると記載され“東寿寺”もまたしかりと記しているのである。
その記述からも東寿寺は大きな石垣で囲まれた寺ではなく生垣に囲まれた隠居寺であったことが理解できます。

参考資料
鎌倉芳太郎 資料集(ノート篇Ⅱ)古事集
琉球国由来記 巻十一
沖縄仏教史    名幸 芳章 著
チーシンブー 第3号  社団法人 久米崇聖会  寄稿 原田 禹雄
中山伝信録    徐葆光 著


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Posted by グランパ at 19:35│Comments(0)暮らし生活
 
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