2011年10月12日
琉球弓道事始 その5
それにしても絵もまたすばらしい出来栄えで、どこで練習していたのか、場所の特定も気になるところです。
その時点では首里の識名園には弓場として練習場が開設されていますので、素足で引いている練習風景から場所を識名園の弓場と推し量る事ができます。
それでは絵を描いた人物は誰かということになりますが、毛世輝なる画家もまた天才的な画家で、鎌倉芳太郎氏は自身の著書のなかで下記のように絶賛しています。
毛世輝我謝盛保 (1788~1830)
鄭嘉訓より21歳若く、しかも2年早く43歳で歿した毛世輝は、官生となり(留学生)7ヵ年北京の国子監において、経学、史学、詩文、礼法を学ぶと共に、また趣味として墨絵四君子の描法を修め、帰国後、役職勤務の間に依頼に応じて画いた余技の絵は、世人から甚だ珍賞された。
寡作のひとで、遺作も少なく、早世したのでついに大成するに至らず、従って一流の画人とはいい難いが、非常に恵まれた資質の人と思われ、遺作中には天才的で他の追随を許さないような作品がある。
このように記述されています、つまりこの絵のことを言っているのであります。
参考文献
中山伝信録 徐葆光
士族門中家譜 比嘉 朝進 著
藺氏家譜 那覇市資料館所蔵
沖縄文化の遺寶 鎌倉芳太郎 著
終わり
その時点では首里の識名園には弓場として練習場が開設されていますので、素足で引いている練習風景から場所を識名園の弓場と推し量る事ができます。
それでは絵を描いた人物は誰かということになりますが、毛世輝なる画家もまた天才的な画家で、鎌倉芳太郎氏は自身の著書のなかで下記のように絶賛しています。
毛世輝我謝盛保 (1788~1830)
鄭嘉訓より21歳若く、しかも2年早く43歳で歿した毛世輝は、官生となり(留学生)7ヵ年北京の国子監において、経学、史学、詩文、礼法を学ぶと共に、また趣味として墨絵四君子の描法を修め、帰国後、役職勤務の間に依頼に応じて画いた余技の絵は、世人から甚だ珍賞された。
寡作のひとで、遺作も少なく、早世したのでついに大成するに至らず、従って一流の画人とはいい難いが、非常に恵まれた資質の人と思われ、遺作中には天才的で他の追随を許さないような作品がある。
このように記述されています、つまりこの絵のことを言っているのであります。
参考文献
中山伝信録 徐葆光
士族門中家譜 比嘉 朝進 著
藺氏家譜 那覇市資料館所蔵
沖縄文化の遺寶 鎌倉芳太郎 著
終わり
Posted by グランパ at 08:56│Comments(0)
│弓道