2011年09月16日
東寿寺について その4
何故真言仏教ではなく儒学かという疑問が生じるが薩摩からの圧力と国政を安定させるには仏教よりも儒教の方が得策として首里王府は盛んに儒学を取り入れ、やがて蔡温や名護親方が登場するのである。
その思想は次代の尚貞王に引き継がれていきますが、おそらく頼慶は王子の代の尚貞にもまたがって教えたかもしれません。
しかし、晩年頼慶は国王の祈願寺である波之上護国寺に住職として帰ります。
やがて国王は次の代へと移り、住職不在の大日寺を国王尚貞は再建を認めません。国の経済が逼迫していたのでしょう。あるいは薩摩への忠誠をしめしたのかもしれません。
その後尚貞王は久米村に孔子廟を建立し(尚貞4年 1672年)国王の拝礼を始めます。
頼慶がはたして実在の人物であるか多少不安なところも有りましたが、昭和初期の護国寺住職名幸芳章著“沖縄仏教史”に出会い著書の中に明確に頼慶の名前を見ることが出来ました。
波之上護国寺は察渡王の代に薩州坊津より渡来した頼重法印が開山した。
それ以来国王の祈願寺となる。
頼重-----頼雄-----頼玖-----頼元-----頼慶-----頼意-----とつづきますが、はたして何代目の住職かは不明です。
護国寺の住職でありかなりの高僧として有名な人物であったことが伺える。
その後ふたたび東寿寺に隠居寺として住んだかどうか今のところ不明である。
波之上護国寺の末寺は他にも有り、頼慶以外の住職が隠居寺として活用したかも知れません。
波上護国寺現住職の名幸俊海氏を訪ね文献として手がかりになるものが無いかたづねてみましたが、さきの大戦ですべて焼失して無いとのことでした。
歴代国王との関連を併記してみますと
尚豊王 順治年中頼慶等を京都に留学させる。
頼慶帰国後久米村東寿寺に住み布教活動をする。
尚質王 頼慶を儒学の侍講として迎え首里金城邑に大日寺創建
して住まわせる。
頼慶、大日如来をまつる。
尚貞王 大日寺再建を認めず波之上護国寺に吸収させる。
久米村に孔子廟を造り拝礼する。
尚益王 世子時代に薩州入観の時日秀上人像を持ち帰り
大日寺に安置。
この時大日如来像は護国寺に移した。

次回は東寿寺の仏像および建物の概要を予定しています。
その思想は次代の尚貞王に引き継がれていきますが、おそらく頼慶は王子の代の尚貞にもまたがって教えたかもしれません。
しかし、晩年頼慶は国王の祈願寺である波之上護国寺に住職として帰ります。
やがて国王は次の代へと移り、住職不在の大日寺を国王尚貞は再建を認めません。国の経済が逼迫していたのでしょう。あるいは薩摩への忠誠をしめしたのかもしれません。
その後尚貞王は久米村に孔子廟を建立し(尚貞4年 1672年)国王の拝礼を始めます。
頼慶がはたして実在の人物であるか多少不安なところも有りましたが、昭和初期の護国寺住職名幸芳章著“沖縄仏教史”に出会い著書の中に明確に頼慶の名前を見ることが出来ました。
波之上護国寺は察渡王の代に薩州坊津より渡来した頼重法印が開山した。
それ以来国王の祈願寺となる。
頼重-----頼雄-----頼玖-----頼元-----頼慶-----頼意-----とつづきますが、はたして何代目の住職かは不明です。
護国寺の住職でありかなりの高僧として有名な人物であったことが伺える。
その後ふたたび東寿寺に隠居寺として住んだかどうか今のところ不明である。
波之上護国寺の末寺は他にも有り、頼慶以外の住職が隠居寺として活用したかも知れません。
波上護国寺現住職の名幸俊海氏を訪ね文献として手がかりになるものが無いかたづねてみましたが、さきの大戦ですべて焼失して無いとのことでした。
歴代国王との関連を併記してみますと
尚豊王 順治年中頼慶等を京都に留学させる。
頼慶帰国後久米村東寿寺に住み布教活動をする。
尚質王 頼慶を儒学の侍講として迎え首里金城邑に大日寺創建
して住まわせる。
頼慶、大日如来をまつる。
尚貞王 大日寺再建を認めず波之上護国寺に吸収させる。
久米村に孔子廟を造り拝礼する。
尚益王 世子時代に薩州入観の時日秀上人像を持ち帰り
大日寺に安置。
この時大日如来像は護国寺に移した。

次回は東寿寺の仏像および建物の概要を予定しています。
Posted by グランパ at 17:33│Comments(0)
│暮らし生活