2011年09月13日
東寿寺について その1
1.東寿寺(堂小:ドーグヮー)はその跡地が久米2丁目の一角にあり、約40坪のなかに小さなコンクリートの祠が設置されている。
誰がいつ何の目的でこの寺を建立したか定かでない。かなりの文献を調べているがやはり明確な答えは見出せないでいる。
戦後この土地は米軍に接収されて入れなかった。当家は1960年代に開放されるや、いち早く大戦前の跡地に戻りはしたものの米軍はブルで整地したためその痕跡は残っていなかった。やがて那覇市による区画整理事業が始まり我が家と隣接していたはずの寺は道をへだて角地に収まった。
大戦前の空撮写真を求めて県立公文書館にて探してみたが、広島の原爆写真のように灰燼となり爆撃後の写真ではその位置関係すら明確にするのは困難である。
琉球の歴史書「球陽」によれば東寿寺は波之上護国寺の末寺であり、 尚質王代の順治年間に頼慶なる者が住んで法を説いた。
尚質王は儒書を侍講させ、つまり儒学の先生として招くのであるが、久米村から首里城までは遠いので金城町に寺院を創建して頼慶に与えた。
東照山大日寺(遍明院)と号し、大日如来の像を泰安した。

誰がいつ何の目的でこの寺を建立したか定かでない。かなりの文献を調べているがやはり明確な答えは見出せないでいる。
戦後この土地は米軍に接収されて入れなかった。当家は1960年代に開放されるや、いち早く大戦前の跡地に戻りはしたものの米軍はブルで整地したためその痕跡は残っていなかった。やがて那覇市による区画整理事業が始まり我が家と隣接していたはずの寺は道をへだて角地に収まった。
大戦前の空撮写真を求めて県立公文書館にて探してみたが、広島の原爆写真のように灰燼となり爆撃後の写真ではその位置関係すら明確にするのは困難である。
琉球の歴史書「球陽」によれば東寿寺は波之上護国寺の末寺であり、 尚質王代の順治年間に頼慶なる者が住んで法を説いた。
尚質王は儒書を侍講させ、つまり儒学の先生として招くのであるが、久米村から首里城までは遠いので金城町に寺院を創建して頼慶に与えた。
東照山大日寺(遍明院)と号し、大日如来の像を泰安した。

Posted by グランパ at 09:48│Comments(0)
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