青磁の駒
やはり有ったのだ!中国将棋”象棋”は久米村に福州から持ち込まれた事は今でも久米の方々が打っている事から理解できるが、はたして久米だけに限定されていたのだろうか?
久米の古老の話では
湧田でも(現県庁がたっている場所:ここは瓦職人がいて湧田窯跡がでている)盛んであったらしい。
それでは首里城の中には存在しないのか?
一昨年の新年会だったろうか、若い歴史学者に問いかけてみたら、首里城の埋蔵物の中に象棋の駒”包”が確かあったはずですよ!青磁でできていました。
やはり存在したのだ。
柵封使達の城下での余暇を象棋をしながら過ごしたに違いないことが容易に想像できるからであります。
しかし首里城は度重なる大火に見舞われ、木製の象棋はきっと灰に帰したと想像しますが、出土した駒は
青磁製だったので災禍をのがれたものと想われます。
昨年暮れの象棋大会に参加した一人M氏によると”兵”の駒も出ていて本人も立ち会ったと話してくれました。
そこで暮れもさしせまった12月29日仕事納めの日、沖縄県埋蔵文化財センターに尋ね、その駒を見せてもらいました。
およそ600年前の青磁の駒”兵”でした。象棋は相手の駒を奪う時相手の駒の上にパチンと重ねて打つため、きっと割れてしまったものと推測できます。
もう一方の駒”包”は現在県立博物館の常設展示場に貸し出しているとの事でした。
そちらも携帯電話のカメラで納めて来ました。
それでは残りの駒と盤はということになりますが、まだ埋まっているか、駒が欠けた象棋は処分されたか
そのどちらかだと想いますが、前者のこれからの埋蔵物の発掘に期待したいところです。