2012年01月23日

ウッシッシ

今年もやってきました!しかも、旧正月のおめでたい日に!

この日がくるのをどれだけ待ちわびた事か!

昼が15度最低13度、今年一番の冷え込みです!

年に3回ほどしかチャンスがないのであります。もう桜が咲いたとニュースの中、ここ南国には

もうこの寒さ?はラストチャンスかもしれません!

家庭内バーベキュウーセット、そう、火鉢の出番なのであります。

普段食卓として蓋をしていますがこのひばかりは本来の火鉢に戻ることが許される日なのです!

冷蔵庫にあるものであぶって食せる物はなんでもOKです。

それに泡盛もカンして飲むのもまた格別なのであります。

写真はかなり飲んでからのシャッターですから多少の手振れをお許し下さい。

  

Posted by グランパ at 21:55Comments(0)TrackBack(0)暮らし生活

2011年12月25日

第5回象棋大会 その2

実は前回のブログでは私のカメラのメモリーがいっぱいになってしまって、肝心なところでの写真が撮れなくなっていました。

記録担当の方から写真を送ってもらいましたのでUPします。



福州から象棋セット150個の贈呈です。



各部門優勝の皆さんです。来年の抱負を語ってもらいました。



今回エントリーした皆さんです。

小学生の父兄の方、および見学の方々ははいっていません。実際はこの倍ぐらいの人数で賑いました。  

Posted by グランパ at 10:44Comments(0)TrackBack(0)

2011年12月19日

第5回象棋大会

第5回象棋大会が112月18日 久米同進会館にて開催されました。

早くも5年目を迎えた本大会はことしは仲村顕氏が象棋の入門書を出版され、博物館や公民館で教室を開き
子供達にも指導されたので、大勢の参加をとなり、となりの事務所まで借りての熱戦が繰り広げられました。

今回新たに一般女子の部も新設し琉球の歴史のなかに女子象棋騎士のあらたな1ページを飾ることとなりました。

今回も在沖縄福州のみなさん数名が参加され、また、東洋言語文化学院の孟廣財理事から小型の象棋セットの(150セット)寄贈がありました。

参加全員にこの象棋セットを参加賞として配布いたしました。

今回は一般の部は敗者復活戦ありのトーナメントとし児童、生徒の部はリーグ戦となりました。

大戦結果は福州の盧氏の昨年につづき2連覇となりました。

        一般の部      女性の部     中高生の部     小学生の部

  優 勝   廬姜威      仲村沙希     蘇靖博       金城拓登
  準優勝   林海涛      島袋百恵     崎本宗瑞      宮城昌竜
  三 位   安次嶺良雄    iyoko      砂川泰斗       光颯平










  

Posted by グランパ at 19:21Comments(0)TrackBack(0)暮らし生活

2011年11月16日

What is it ?

What is it ? 中国語でジョーシーシェンマ?というらしい。

直前に中国語の先生から覚えても使えません!と言われた。



これは見てのとおり路上での飴菓子職人である。



左側の果物がいったい何なのか、 さっそく使ってみた。

ジョーシーシェンマ? 

返事が返ってきた。****::::####????

先生のご指摘はこのことだったのである。つまり確かに通じたのであるが、それゆえに中国語で返されると

まるっきり判りませんでした。



福州や山東省済南市でよく見かけた乗り物です。エコ自転車というかバッテリー駆動の自転車です。

免許が要らなくてノーヘルOKです。

したがってママチャリと同じあつかいでOLとか高校生が利用していました。

あの自転車の集団がこの乗物に代わっているのです。スピードも結構出ていて二人乗りもOKでした。







しかし、なぜか上海ではあまり見かけませんでした。

省によって交通法基が違うのかも知れません。  

Posted by グランパ at 16:33Comments(0)TrackBack(0)

2011年11月13日

なにもかも

9月に熊本の白川水源わ尋ねたばかりですが、ことしは何故か水源に縁があるのか、ここ山

東省済南市にあ趵突泉(しゃくとつせん)にやってきました。

福州から国内航空で2時間ほどの距離です。白川水源が阿蘇の雨水がその麓で湧き水となり噴出すのです

が、ここ趵突泉は近くの泰山に降った雨水が同じようにこの地で湧水となり噴出しているの

です。

水面が盛り上がるほど湧き出して、写真では判りにくいのですが、3箇所で盛り上がり渦を巻いていまし

た。白川の100倍はあるでしょうか?此処一帯に泉がありわきだしています。




そこを出て最近できたばかりの山東省博物館に参りました。

巨大な建築物です。なかのエントランスホールにびっくりです!

まるでUFOが頭上に来たかのようなSFの映画の世界です。



時間がなく大急ぎの見学でしたが、古代仏教美術の研究者にはたまらない博物館でしょう。



初期の仏教伝来の仏像が展示されています。

いかにも西域を思わせる面立ちの仏像を一枚だけカメラに納めて次の場所への移動となりました。

中国はなにもかもデカイのであります。

  

Posted by グランパ at 17:01Comments(0)TrackBack(0)

2011年11月11日

在福州琉球館

福州には対琉球への窓口として事務所兼宿泊施設としての施設柔遠駅が有ります。

那覇を出てこの施設にたどり着いて旅装を解いた先達はさぞほっとしたことでしょう。

2階にはどうやら宿泊施設も兼ねたであろう空間があり、船荷のチェックも最初と最後はこの建物で仕分け

されそれぞれの担当官の任務であり,いったん船が入ると上へ下えと、活気に満ちた建物だったことが伺え

ます。



船荷は伝馬船により閩江沖待ちの進貢船までこの裏の小川(むかしのガーブー川ににていま

すが)から漕ぎ出したとのことです。橋の那は三通橋、 同行した先輩によれば戦前の泉崎

橋にそっくりだそうです。







追記: 読者から現在の建物は移設後再建されたものであるとのご指摘がありました。
    つつしんで訂正させていただきます。  

Posted by グランパ at 18:07Comments(0)TrackBack(0)

2011年11月10日

失ってはじめて気づく大切なもの・・

5年ぶりに福州市の孔子廟を訪ねました。

文化大革命で大半の遺跡は破壊されたままでしたが、この5年の間に孔子やその弟子達の石像が新たに作ら

れていました。





なら初めから壊さなければ良いではないか、と短絡的にものごとをかたずけてはいけません。

その時の国家はそれが正しいものと判断したのです。

過去の大戦も同じ事ではないでしょうか。初めから間違っていると判って戦をしかけるものは居ないのと同

様に国家を変えるには致し方無い事だったかもしれません。





しかし、やはり、行き過ぎました。今中国はそれに気づいて大急ぎで修復に入っているようです。

日本の遺跡とは桁が違うのです。3000年前の碑文とか彫刻ががれきとなってしまいました。

失って初めてその大切さに気づき始めたようです。  

Posted by グランパ at 18:00Comments(0)TrackBack(0)

2011年11月09日

友好の翼

那覇市と福州市の友好都市締結30周年記念事業那覇市・福州市友好の翼に参加して参りました。福州は5年ぶりの訪問です。

歓迎パーティーの翌朝、閩江のほとり、閩江公園にガジュマルの記念植樹が設定されていました。

公園の植栽は沖縄とほぼ同じ植物です、那覇の公園に居るようで福州と那覇は気候も温度もほぼ同じです。

何とガジュマルは福州市の市の木として指定されているようです。





福州市は5年の間に見違えるほど近代化が進み高層ビルが林立する都会に進展していました。

河の対岸に高層ビルが立ち並んでいるのが見えるはずです。






福州市の市長と那覇市の市長の後私達もスコップ一杯の土を埋め戻して参りました。  

Posted by グランパ at 18:26Comments(0)TrackBack(0)

2011年10月29日

久びさの無無亭

やっと開放されました。おもえば4月にチームを結成して以来弓道に明け暮れていました。

今月の熊本での遠征、帰ってから直ぐの県内スポレク弓道大会と、日々弓をしょって歩いていた自分でした。

村中総出の枝打ち大作戦から40日が過ぎようとしています。

根っこから切り取った大木に二度と生えないように枯葉剤をしみこませる為に無無亭にやってきました。

天気が良く庭からの眺めが最高です!ここに来るとほんとに癒されます!



今朝の瀬底大橋と瀬底島です。那覇とは海の青さが違うのです。

無無亭は大半の木を刈り取ったため屋敷がまるみえです。植栽が整うまで数年をようすることでしょう。



寒い地方の方々にはとても信じがたいと思いますが、もう那覇ではすっかり姿を消したはずの蝉がまだ鳴いているのです。




そういえば、先月枝打ち大作戦のおりこんな小動物も出てきました。



木登りトカゲです。


今朝、赤腹ダカが二羽頭上をまっていました。冬はもうすぐそこです。  

Posted by グランパ at 21:37Comments(0)TrackBack(0)隠れ家・無無亭

2011年10月20日

ねんりんピック in 熊本

今年の開催県は熊本でした。 一昨年の北海道大会でのメンバーで今年も沖縄県チームとして参加しました。



空港での出発前のひとこまです。

開会式は前日の大雨のあと心配されましたが、式典の間降らずに無事開催されました。

沖縄県チームは一番で入場です。
ドームの中央には常陸宮殿下ご臨席です。
聖火の最終ランナーは柔道の山下氏でした。聖火台に点火し平成23年度のねんりんピック熊本が開催されました。





試合の合間をぬって熊本城と田原坂公園を散策







今回は植木市の弓道場での大会でしたが、きれいな道場で気持ちよく引かせてもらいました。

大会の関係者また、ボランティアの皆様ご苦労様でした。  

Posted by グランパ at 21:10Comments(0)TrackBack(0)弓道

2011年10月12日

琉球弓道事始 その5

それにしても絵もまたすばらしい出来栄えで、どこで練習していたのか、場所の特定も気になるところです。

その時点では首里の識名園には弓場として練習場が開設されていますので、素足で引いている練習風景から場所を識名園の弓場と推し量る事ができます。

それでは絵を描いた人物は誰かということになりますが、毛世輝なる画家もまた天才的な画家で、鎌倉芳太郎氏は自身の著書のなかで下記のように絶賛しています。

毛世輝我謝盛保 (1788~1830)

鄭嘉訓より21歳若く、しかも2年早く43歳で歿した毛世輝は、官生となり(留学生)7ヵ年北京の国子監において、経学、史学、詩文、礼法を学ぶと共に、また趣味として墨絵四君子の描法を修め、帰国後、役職勤務の間に依頼に応じて画いた余技の絵は、世人から甚だ珍賞された。
寡作のひとで、遺作も少なく、早世したのでついに大成するに至らず、従って一流の画人とはいい難いが、非常に恵まれた資質の人と思われ、遺作中には天才的で他の追随を許さないような作品がある。

このように記述されています、つまりこの絵のことを言っているのであります。




参考文献

  中山伝信録      徐葆光
  士族門中家譜     比嘉 朝進 著
  藺氏家譜       那覇市資料館所蔵
  沖縄文化の遺寶    鎌倉芳太郎 著




終わり  

Posted by グランパ at 08:56Comments(0)TrackBack(0)弓道

2011年10月11日

琉球弓道事始 その4

二世の代に薩摩の支配下にはいり国王尚豊の命で薩摩へ買い付け官として派遣されています(尚豊王の中国への請封として必要とされた大和の物資買い付け役)。もともと那覇士族は商人が多く首里王府に経済的に貢献した者を士族に取り上げていますから、藺氏も比較的早い時期に薩摩との交流があったことがうかがえます。

さて、この四世新垣親雲上は新垣性を名乗るには日が浅くおそらく先代からの呼び名として我謝親方として呼ばれていたと推察いたします。
彼は大和横目(薩摩在番の接待役)、つまり薩摩の琉球駐在官のおもり役としてとりたてられ、久米村総与頭(消防長)、砂糖奉行(黒糖の出納)など歴任し、申口座(親方の次位)に上ります。その後糸嶺に改姓し、現在でも藺氏の宗家は糸嶺姓を名乗っています。

それでは彼は何処で何時弓道を学んだのでしょうか?
その件は藺氏の家譜に明確に記述されていました。
康煕57年(1718年)尚氏越来王子朝慶の江戸上りのさい従者として随行します。そのおり東郷長左衛門尉重より日置流弓法を伝授されているのです。



           
   

           藺氏 家譜

乾隆5年(1740年)在番奉行仁禮十兵衛はこのことを聞き及んで9月5日に沖縄の在番奉行のある御仮家において弓術の披露を請願しました。
さいさん断るのですが断れずご披露目することになり、首尾よく無事勤め上げて、翌日“表15人衆”経由でお礼とお褒めの口上書をいただいたと記載されています。

彼こそが上記記載の絵の主人公であり、琉球で最初に弓術(弓道)を修めた大先輩なのであります。

  

Posted by グランパ at 16:52Comments(0)TrackBack(0)弓道

2011年10月10日

琉球弓道事始 その3

それは一枚の掛け軸から始まるのです。
     
小生が大学3年の春休みに帰省したおり、首里龍譚池のほとりに琉米文化センターなるものがあり(現在は県立芸大が建っている)、当時は博物館は無く、この施設がその役目を担っていました。

回廊には絵画とか書が展示されていました。

この絵のまえに立った時全身に稲妻のような気が走ったのを覚えています。びっくり!
      
           





            我謝親方弓射図  伝毛世輝筆


いったいこの我謝親方なる人物は誰なんでしょうか?この人こそ琉球で最初に弓道を学んだ先人なのであります。

射の型といいお供の蹲踞の姿勢も現代弓道そのものであります。

この絵の主人公である我謝親方なる人物は那覇士族“藺氏(りんうじ)”の四世“新垣親雲上篤儀”なる人物なのであります。

一世を我謝親雲上篤當といい1596年尚寧王の代に西原間切我謝地頭に任じられ我謝姓をなのりますが、二世~3世は今帰仁親雲上と名乗り、四世になって真壁間切新垣地頭を拝命して新垣親雲上を名乗ります。



次回へつづく
  

Posted by グランパ at 22:02Comments(0)TrackBack(0)弓道

2011年10月08日

琉球弓道事始 その2

それでは何時ごろから琉球は和弓を取り入れたのでしょうか?度重なる戦国時代(三山統一)の弓はいかなる弓で戦に望んだのでしょうか?

文献(通航一覧)では中国への朝貢貿易に福州五虎門の海上で海賊にあい、弓矢で応戦したともありますが、残念ながら弓に関する具体的な記述はありません。

もっと遡りますと琉球国の歴史書ともいううべき“中山世鑑”には初代琉球国王“舜天”は源為朝の子として登場し、為朝は琉球を去るにあたって息子(舜天)に重籐の弓と中黒の矢を残していきます。

この薩摩の支配下で作り上げたであろう歴史書をまともに解釈しますと初代琉球国王“舜天”と鎌倉幕府の“源頼朝”とは従弟同士となり薩摩への敵対心をうすめる目的を持たせた事が否めません。

この歴史書によれば琉球国王“舜天”が最初に和弓を引いたことになりますが、信憑性にとぼしく大きな矛盾が生じます。

さて、それでは文献に残る最初の和式弓道を始めた人はいったい誰でしょうか? 

長い間内なる自分へ問いつづけた課題でも有りましたが、最近探り当てる事ができました。

次回へつづく  

Posted by グランパ at 09:25Comments(0)TrackBack(0)弓道

2011年10月07日

琉球弓道事始 その1

いったい誰がこの沖縄(琉球)で最初に弓を引いた人でしょうか?

弓道連盟の諸先輩に尋ねても正確な答えは返ってきませんでした。

大正時代の末期に女学生で弓道を始めたとか、旧制高校(今の大学)時代に始めたとか、いたって新しく、それ以前には確たる話はありませんでした。

もっとも古い時代には中国の琉球冊封史徐葆光は“琉球伝信禄”の中に”長弓短箭“のタイトルで古琉球の弓を紹介していますが、この弓は現代の弓とは多少異なり今に伝わる弓道の弓とは異なるもので似て非なるものとしてとらえています。

       

         



次回へつづく  

Posted by グランパ at 16:24Comments(0)TrackBack(0)弓道

2011年09月18日

東寿寺について その6

5.東寿寺はどんな建築物であったか?

古老の話を総括いたしますと、まず屋根は赤瓦で6畳と8畳の二間がありお手洗いも設置されていた。

手前8畳と奥に6畳と仏壇があり、二つの部屋はフスマで仕切られ、普段は仏間を閉めて、古老の父の代の人たちが中国将棋である像棋を打って遊び、老人達の憩いの場として活用されていた。

電灯もついていた。あらためて管理人を置く事はなく、近所の人たちが適時開け閉めをやっていたもようで鍵など無かったとのことでさる。

入り口は石段がありその両脇も石組みの袖で構成され、真正面の奥に三体の仏像が安置されていた。

今のところここまでしか判っていません。




おわり。  

Posted by グランパ at 18:12Comments(0)TrackBack(0)暮らし生活

2011年09月17日

東寿寺についてその5


4.東寿寺に安置されていた仏像について

古老の話と亡父の話を思い出してみるに東寿寺には木像が三体安置されていたようです。
いずれも国宝級の仏像であったが去る大戦の10月10日の空襲で焼滅してしまったとの事である。

頼慶、および護国寺(真言宗)の背景を考慮しますと中央の仏像は大日如来であったであろうと推測できますが、それでは他の左右の仏像はいかなる仏神で構成されたか不明であります。中央の坐像はほぼ等身大で左右の像は小さかったと話してくれました。

しかし、古老の話では左側の仏像は槍をもって怒っていたとの記憶を語ってくれました。真言宗の仏像の3点セットとして左に天の部、右に明王の部を配置したと考えます。天の部は槍をもった天として四天王を配置すべきですが、せまいお堂のなかなので多聞天(毘沙門天)のみを配したものと推測します。

いっぽう明王の部は亡父が不動明王の名をことあるごとに話していた記憶がありおぼろげな、記憶のなかでの話となりますが不動明王となりこれで3体が揃う事となります。
つまり、左に毘沙門天、中央に大日如来、右に不動明王となります。

しかし、あくまで私の推測の域をでない話でありまして、先日波之上護国寺に住職をたずねこの件をお尋ねしましたところ、真言宗では3テンセットの左側には弘法大師像が無理の無い配置とのことでした。

この点につきましては専門家のご指導を仰ぎたいところです。



次回につづく  

Posted by グランパ at 14:46Comments(0)TrackBack(0)暮らし生活

2011年09月16日

東寿寺について その4

何故真言仏教ではなく儒学かという疑問が生じるが薩摩からの圧力と国政を安定させるには仏教よりも儒教の方が得策として首里王府は盛んに儒学を取り入れ、やがて蔡温や名護親方が登場するのである。

その思想は次代の尚貞王に引き継がれていきますが、おそらく頼慶は王子の代の尚貞にもまたがって教えたかもしれません。

しかし、晩年頼慶は国王の祈願寺である波之上護国寺に住職として帰ります。
やがて国王は次の代へと移り、住職不在の大日寺を国王尚貞は再建を認めません。国の経済が逼迫していたのでしょう。あるいは薩摩への忠誠をしめしたのかもしれません。

その後尚貞王は久米村に孔子廟を建立し(尚貞4年 1672年)国王の拝礼を始めます。

頼慶がはたして実在の人物であるか多少不安なところも有りましたが、昭和初期の護国寺住職名幸芳章著“沖縄仏教史”に出会い著書の中に明確に頼慶の名前を見ることが出来ました。

波之上護国寺は察渡王の代に薩州坊津より渡来した頼重法印が開山した。
それ以来国王の祈願寺となる。
頼重-----頼雄-----頼玖-----頼元-----頼慶-----頼意-----とつづきますが、はたして何代目の住職かは不明です。

護国寺の住職でありかなりの高僧として有名な人物であったことが伺える。
その後ふたたび東寿寺に隠居寺として住んだかどうか今のところ不明である。

波之上護国寺の末寺は他にも有り、頼慶以外の住職が隠居寺として活用したかも知れません。

波上護国寺現住職の名幸俊海氏を訪ね文献として手がかりになるものが無いかたづねてみましたが、さきの大戦ですべて焼失して無いとのことでした。

歴代国王との関連を併記してみますと

尚豊王  順治年中頼慶等を京都に留学させる。
     頼慶帰国後久米村東寿寺に住み布教活動をする。

尚質王  頼慶を儒学の侍講として迎え首里金城邑に大日寺創建
     して住まわせる。
     頼慶、大日如来をまつる。

尚貞王  大日寺再建を認めず波之上護国寺に吸収させる。
     久米村に孔子廟を造り拝礼する。

尚益王  世子時代に薩州入観の時日秀上人像を持ち帰り
     大日寺に安置。
     この時大日如来像は護国寺に移した。






次回は東寿寺の仏像および建物の概要を予定しています。  

Posted by グランパ at 17:33Comments(0)TrackBack(0)暮らし生活

2011年09月15日

東寿寺について その3

3.頼慶とはどんな人物か?

出身は不明、当時の琉球は既に薩摩に支配されてから30年近く過ぎていて、かつ中国では明が滅び清に変わる過渡期であり、次第に日本文化を取り入れ積極的に日本との接触を試みた時代でもあった。

国王尚豊は広く国内から優秀な青年をつのり京都に留学させた(真言宗)。
頼慶はその一人であり京都で真言密教を修める傍ら儒道の書籍を学び琉球に帰国しています。

おりしも国王は尚質の代となり薩摩が仏教を弾圧し、儒教を進める中、琉球も追随せざるをえない環境にあり国王も儒学を学ぶ必要にせまられたのではないでしょうか。

京都留学から帰った頼慶は久米村東寿寺に住んで真言仏教を説教します。
真言宗は波之上護国寺が本山であり(国王の祈願寺)若い頼慶は末寺である久米村の東寿寺に住んで布教活動をしたものと思われる。

しかし、その優秀さはやがて国王尚質の耳にとまり国王の儒学の師として迎えられ、久米村から首里城までのみちのりを不憫に思い国王は首里金城邑に寺院を創建して与えた。頼慶は真言密教ゆえに大日如来像を安置して寺の名前を東照山大日寺とした。



次回へとつづく  

Posted by グランパ at 10:18Comments(0)TrackBack(0)暮らし生活

2011年09月14日

東寿寺について その2

2.堂小屋敷(ドーグヮーヤシチ)について
久米には蔡氏の忠尽堂(蔡氏の祖を祭った祠堂)があり、これを堂屋敷といい、このほかに東寿寺近隣の堂小屋敷と二つの屋敷郡がありました。前者は堂の規模が大きく且つ蔡氏に限定した屋敷郡であったのに対してこの堂小屋敷は堂が小さくかつ氏にこだわりが有りませんでした。堂小とはつまり東寿寺のことで、その境内に分家筋の久米村の人や、中国への航海に不幸にして帰らぬ人となり主人を亡くした家族とか、禄を失った人たちがいつしか住み込むようになり小さなコミュニティーを形成していったのである。
この小さな集落を堂小屋敷(ドーグヮーヤシチ)と呼んだ。
この二つの屋敷郡の境界はおおきな石垣でしきられ、内側を堂屋敷、外側を堂小屋敷と区別したようである。

“武士は食わねど高楊枝”禄を取り上げられて極貧の生活のなかから明治を生き抜いていくのですが、現実には禄であったはずの米に代わりサツマイモを食していた。他に知られたくない影の部分であったにちがいないがこの急変した生活を風刺したわらべ歌(堂小屋敷のタンメーサイ)がやがて全島にひろまっていったのである。



県内のとある合唱団がカナダで沖縄のわらべ歌を披露したら、数ある演目のなかでこの歌が一番うけたそうです。この歌にはアメリカ南軍の行進曲をもじった曲もあるようですが、譜面が見当たりませんので、上記カナダで使用したといわれる譜面をUPします。



  

Posted by グランパ at 16:44Comments(0)TrackBack(0)暮らし生活